[七海] 潜航日誌(DAY6) – ミドルフェイズ「交流シーン(2/2)」

◆前回までのあらすじ
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 海の上にインクを垂らしたかのように鮮明に、赤紫色の精緻な魔法陣が描かれている。それは夜闇に昏く輝きながら、ゆらりゆらりと静かに波に揺れる……。

 ……世界を切り分ける視点というものは、当然、その世界ごとによって異なる。四大、あるいは五大の元素が支配する世界、あるいは多種多様な精霊によって分割された世界……枚挙には暇がないであろう。そして世界を切り分ける視点が多様であるのであれば、世界を操る神秘の体系も、当然のように世界によって異なることとなる。
 彼、アルストリアが故郷とする世界において、時空を支配する属性は”闇”のそれである。そして彼が得意とする魔法は、特定の魔法属性を異なる魔法属性へと変ずる魔法であった――”水”を媒介に、”闇”を喚び出す、といったような。
 すなわち、海という広大な”水”の支配する《テリメイン》において、彼は実に多種多様な魔法を操る術者と化す。異世界を渡る航路さえ知ることが出来れば、その転移門を開くことぐらいは、わけのないことであった。

 慧は、故郷の世界では見るべくもない光景を前に、鳩類に豆鉄砲をぶつけたかのような間の抜けた顔で、目を点にしてぽかんと口を開いて突っ立っている。そんな彼の姿を見て、アルストリアは不可解そうに眉根を寄せた。

「何ぼーっとしてるんだよ。帰るんだろ、そう長時間は開けてらんねーぞ?」

「あッはい。えーと、あの魔法陣? の真ん中に行けばよろしいやつ?」

「そうだよ」

 つっけんどんに言われた慧は、おそるおそるといった様子で押し寄せてくる波に向かって足を踏み出した。浅瀬に足を浸したところで数秒ほど立ち止まったが、そこでなにかの覚悟が決まったのか、あとはためらうことなく魔法陣の中心に向かって海水をかき分けて進んでいく。
 海の深さは膝にまで至り、魔法陣の縁にと足が触れたあたりで、ぐぐと何か押し返すような力に突き当たり慧の歩みが止まった。少しばかり怪訝な顔をした彼は、片足を下げて勢いをつけてまた一歩を踏み出す。やはり見えないなにかかの反発を受けるものの、それを押しのけて彼は魔法陣へと足を踏み入れた。そこからはさしたる抵抗もなく、一歩、二歩、三歩。
 そうして、陣の中心へと慧は立つ。

「……。」

 ――これで、元の世界に帰れる。
 どこかしんみりとした顔で、慧は空を見上げた。弓のような月が浮かび上がっている。この世界の海は故郷の海とは異なるかもしれないが、空だけを見れば、故郷もこの世界もそう大差があるようには見えなかった。

「…………。」

 この世界で過ごしたのは、たったの数日。そのくらいの異世界トリップで済むのであれば、ちょっと変わった経験、の範疇で済ましてしまっても構わないだろう。彼の故郷の世界の時間が、この世界で流れた時間と等しく進んでいたとしても、数日であれば大きな事件とはならないだろう。
 たぶん、おそらく。

「………………。」

 そういえば、たったの数日ではあったかもしれないが、そのあいだ同行をしてくれたイルプトオーメルに挨拶のひとつもしていないことが、少しばかり気に掛かった。彼は慧の認識の中ではかなりロクでもないほうの人間には違いなかったが、最低限、人としてなにか礼でも述べるべきであったのかもしれない。
 慧は空から、陸へと目を向ける。先程と特段変わった様子もなく、アルストリアが佇んでおり、もちろんそこにイルプトオーメルの姿もピンクのシャチの姿もない。思い出すのが、少しばかり遅すぎた。
 もっとも、それで言えば、この世界でほんの少しばかりの縁があった人々にも同様には違いない。

(あるいは人生なんてそんなものなのかもしれないな――なんて?)

 ふと思い浮かんだ感傷に、なにを分かったようなことを――と自分で苦笑する。思い直して、慧は海の向こうへと目を向ける。夜の海のその先は、空の闇と溶けて境界すらも曖昧になっている。

 海の風が肌を撫でた。

 そうして静かに時だけが流れる。

「…………。あの」

 ……数分の間。

 しんみりと回想を繰り広げていた慧は、その間、なにひとつその神秘を示すこともない魔法陣の上で、曖昧な笑顔の疑問符を浮かべながらアルストリアを振り返った。アルストリアは、魔法陣がその役割を果たすその時を、ただ悠然とした様子で待って――はおらず、慧の視界に映ったのは不可解そうな様子で首を捻っている少年の姿であった。
 アルストリアは肩に担いだ杖をすいと魔法陣に向けてみせた。杖に光が灯る。魔法陣が瞬間輝き――それだけであった。すう、と煌めきはすぐに闇に溶ける。

「おかしいな」

 そして、ついにアルストリアが決定的は一言を口にした。

「あッやっぱりおかしいんだこれ」

「んー……。転送の輪から”向こう”の世界に力を接続したいんだけど、なんか結界みたいな力に阻まれてる」

 世界を形成する要素は近そうなはず――と独り言のように呟きながら、アルストリアはみたび杖を振る。今度も杖の先に輝く水晶は燐光を放つが、しかし今度は魔法陣の光が強まる様子はない。それどころかその輝きはどんどんと失われていき、魔法陣を構成する線がじわりと海に滲んでいくほどであった。
 魔力の流れから、異世界への道が途切れたのを感じとったアルストリアは、大きく息を吐き出して杖を肩に担ぎ直してから怪訝そうに呻いた。いくつかのあり得る可能性を手繰る中で、ふともうひとりの同行者が脳裏に浮かぶ。彼に聞けば何かの知見が得られるのではないかとアルストリアが考えはじめたところで、もはや魔法陣の名残ほどしか残っていないその中心に立ったままの慧がぽつりと呟くのが彼の耳に届いた。

「やっぱり駄目か」

 アルストリアは、それを聞き咎める。

「うん? いや待てなんだよ『やっぱり』って」

 ああ、とやや困ったような様子で慧は後ろ頭を掻いて、それからざばざばと波を蹴立てて陸へと戻ってきた。アルストリアの近くにまでやってくると、カバンにしまっていた大判の書籍――《Seven Seas TRPG 基本ルールブック》を取り出すと、慣れた様子でとあるページを開いてアルストリアに差し出す。

《クラス:地球人》

 ページには大きく、そう書かれていた。いくつかの文章と数字の羅列、そして四角い枠で囲まれたテキストの並ぶページを開きながら、慧はその中の枠のひとつを指差して、アルストリアに示して見せた。眉間に皺を寄せながら、アルストリアがそれを覗き込む。

《永劫回帰の門》
《このスキルを取得した場合、キャラクターは任意に異世界に移動できるようになる。具体的な効果はGMと相談すること》

「――ナニコレ?」

 それを見たアルストリアの頭にある可能性のようなものが浮かぶが、上手く形にならずに怪訝な声を上げる。慧は、なんと説明したものか、と逡巡するように目を細めると、ゆっくりと噛み砕くように、口を開く。

「ええと……あー……。細かい説明は省くけど、とにかくオレはそのスキルを取得しておらずですね」

「うん? それで?」

「そのスキルを取得することで《異世界に移動できるようになる》のであれば、そのスキルを取得していないオレは、異世界に移動できることはないのではなかろうかとか、そういうアレがですね」

 アルストリアの頭で、かちり、とピースが嵌まる音が聞こえた。慧の言わんとする内容を理解して、そうして転移門の不可思議な動きを理解する。地面に置かれた重い荷物を持ち上げようとして、身体だけが持ち上がって伸びきった腕が引っかかるような……運べもしないものを運ぼうとしたときの抵抗の理由。
 すなわち、アルストリアの好意がそもそも無為であったという結論を。

「……先に言え――――ッ!!!!」

 ……アルストリアの叫びは、広い海の向こうに消えていく。